弥勒菩薩

常々思う事の良し悪しに感けず攣れ綴る。
其の肆 頽滅の微笑


現在特別拝観している法隆寺と薬師寺へ行って参りました。
まずは法隆寺。
夢殿の本尊・救世観音を、この眼でしか、と拝ませて頂きました。
薄暗かったので、多少観づらかったですが。
とても美しいお顔をなされておられました。はい。
今回は期間限定の夢殿本尊公開とは別に、法隆寺の秘宝展も行われていました。
眼福です。
続いて薬師寺。
吉祥天像を始め、様々な大宝蔵殿所蔵の品を拝観。
吉祥天像は日本史や美術の教科書に掲載されている事が多いので、知っておられる方も多いのではないかと思います。

さて、ここらで本題を。
仏像や仏画など、1000年程も前に作られた物達は、現代では当たり前ながら薄汚れ、色褪せ、中には破損しているものもあるわけです。
傍から観れば(罰当たりな台詞ですが)明らかにガラクタの類であろうそれらは、しかしながら我々の眼を、心を捉えて離しません。
我々は、色褪せたそれら美術品に、“真の美”を見出すのです。
何故なのか。

ここで僕個人の意見を取り入れるならば、例えば1000年の年を経た仏像と、それを過去の煌びやかであったろう時代から持ってきたものと並べて、“どちらがより美しいと思うか”と尋ねられたら、迷う事無く1000年来の古ぼけた仏像を選びます。
当時は豪華絢爛であったものより、朱や漆、箔などが剥がれ落ちて所々にしか残っていない様なものの方が、僕にとって魅力的なのです。

万人が僕と同じ考えを持っているとは思っておりませんが、“時の与える頽敗”に心を揺さぶられる方は少なくないのではないでしょうか。
そもそも仏教的美術品は信仰心の具現化であると同時に、(造立を命じた者の)権力・財力の誇示材料でもあったわけです。
だからこそ、贅沢の粋を集めた朱塗り、漆塗り、箔押しなどの行程が存在する。
端的に言ってしまえば、信仰の為だけであるならば、荒削りの木像でも、筆一本を走らせただけの絵であっても構わない筈です。
しかしながら、それらは仏教的“美術品”と呼ばれ、視覚的な“美”を追求しています。
そのままであるならば、これらもまた只の“美術品”としてそこに存在するだけで終わったでしょう。

その、只の“美術品”がそのままで存在せず、今尚信仰心を集めているのには2つの事柄が深く関わっています。
第一には、先程述べた様に“物質的に風化している”という事が挙げられます。
風化してしまった事によって、(“信仰”という事から言えば)本来不必要な行程の部分が殆ど削ぎ落とされ、必要最低限の本体だけが残されました。
そして“美術品”としての価値から開放され、本来あるべき所に戻ったわけです。
そして第二には“過去の信仰心の積み重ね”が挙げられます。
1000年程も昔のものが、壊れて消えてしまう事も無く今日の我々の観る所となっているのは、偏に昔の人々がそれらを守り、慈しみ、大切に思っていたからこそです。
我々は、仏教的美術品を、過去の人間の信仰心と共に拝み、奉っているのだと僕は思うのです。

睡眠不足で少々高テンションになっていますと思われます・・・。

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