行動存在

ところで、内界と意識の特徴となった第3幕での有名な独白がある。『生か、死か、(To be, or not to be,)』である。兎角引用され、好き勝手に模倣され、解剖され、或いは熟考されてきたこの台詞は、近代性及び近代的自我を定義するに至っている。そして実際に、近代的主体と近代の主体性とが産声を上げたのである。

 生か、死か、それが疑問だ、
 どちらが男らしい生きかたか、
 じっと身を伏せ、不法な運命の矢弾を堪え忍ぶのと、
 それとも剣をとって、押しよせる苦難に立ち向い、
 とどめを刺すまであとには引かぬのと、一体どちらが。いっそ死んでしまったほうが。死は眠りにすぎぬ――
 それだけのことではないか。眠りに落ちれば、その瞬間、一切が消えてなくなる。
 胸を痛める憂いも、肉体につきまとう数々の苦しみも。
 願ってもないさいわいというもの。死んで、眠って、ただそれだけなら!
 眠って、いや、眠れば、夢も見よう。それがいやだ。
 この生の形骸から脱して、永遠の眠りについて、ああ、それからどんな夢に悩まされるか、
 誰もそれを思うと――いつまでも執着が残る、
 こんなみじめな人生にも。

この台詞をこの台詞たらしめているのが言葉遣い、即ち、完膚なきまでに単音語でまとめられた節語、不定詞“to be”の繰り返し、言葉によって緻密に描写された思考の苦悶、といったものであろう。そして、この耐え難い意識の高まり(意識過剰)の爆発、これこそが我々が思う所の近代という状況と悲劇そのものなのである。これまでハムレット王子を演じてきた役者・俳優達はこの台詞を魅せる為の新たな方法を編み出そうと試行錯誤を続けてきた。映画『ハムレット』の主演監督を務めたケネス・ブラナーは、自ら演じるハムレット王子に、鏡の中の己を見詰めながらこの台詞を言わせている。幾つもの自我を、彼自身の異種を三面の姿見の中に曝け出し、垣間見る中で、彼演ずるハムレット王子はこの台詞を言い放つのだ。果たして真実の彼は鏡の中のいづれか?
『生か、死か、』――この台詞を他の似た構成の文と比較してみても良いだろう。例えば、『なすべきか、なさざるべきか』。この言葉は見事な台詞の中で登場するが、我々の見る限り、『なすべきか、なさざるべきか』の台詞は見地の限りではマクベスを苦しめている板ばさみの境地にも似ている。

 心に思う殺戮はまだ空想に過ぎないが、
 その想いがおれの弱い性質を揺り動かして
 機能は妄想で窒息してしまい、
 ここにない物より外にはなんにもない。

『なすべきか、なさざるべきか』はまた、恐ろしい行為の寸前に身震いする時のオセロも直面する問題である。それに反してハムレット王子は、殺人や復讐を目論んだりと行動について同様に熟考こそしているものの、彼のその行動ではなくその存在こそが、後世の作家、哲学者、評論家が人間の本性に向かって掲げた鑑であったのだ。存在(と想起)がヒトの本質であり人間の痛みと喜びである以上、それらは記憶と直接結びついた『ハムレット』にこそ存在しているのである。


      "SHAKESPEARE AFTER ALL"より抜粋(訳・南部新)

攻殻S.A.C.#12でタチコマのハッチ内にあるモニタにスクロールした文字“not to be”。
タチコマが我々人間に向かって掲げた鑑とは何であったのか。
“生”と“死”を持たずに“存在”するものが。

#26で少佐は語る。
STAND ALONE COMPLEXから抜け出す切り札は“好奇心”である、と。
タチコマの“do”であったもの。
無垢な欲求。
それ故に、危険な。

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