スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

自画多筆

常々思う事の良し悪しに感けず攣れ綴る。
其の仇 だから僕は夢の国が嫌い


海外サイトでファンアートが無断転載されている件に関してぽつぽつと。

なんでしょうかね、悪気が無いのが始末に終えないと言うか。
本人達は“ねえねえ、このイラスト超綺麗じゃないー?”“わーホントだ!”位のノリなんでしょうね。
でもさ、それをやられた側はたまったモンじゃないんだ。
“文化の違い”なんて言葉がありますが、でもそんな言葉で片付けてほしくないです正直。
“イラストの無断転載”っていうのは言わば自分が写った写真が見も聞きも知らない人に勝手に見られているって言うのと同じなんですよね。
サイトに掲載している時点で不特定多数に見られる可能性は出てきますし、そもそもインターネット上に自分の作品をアップロードしている時点で不特定多数に見られたいという願望の現われでもあるんですが、でもそれはあくまで自分の管轄内で起きている事なので例えば問題が起きた時(っちょこれR-18じゃね?のような)に対処出来るし、誰かに落書きされることも無い(教科書の人物像に髭が生えてたり、のような)。でもそれが自分の認知外の場所で晒されているとどうする事も出来ないんですよ。例えば“このイラスト私が描いたの★”なんて嘘を吐かれても自分の管理しているサイトでなければその嘘にすら気付かない。それは凄い恐怖だと思います。

てかさ、ミッ○ーマウス保護法を作ったくせにウォルト以外の人の著作権に対して無頓着とか、どれだけ唯我独尊なの。
いや、まあ別に無断転載しているサイトはアメリカだけじゃないんですけどね。
スポンサーサイト

戦車児淫

文庫本棚

今日は雨が降っていたので買い物はバスで行きました。
ついでなのでかさばるものも買ってしまえ!と言う事で本棚です。
大きいドライバーがなくてコンビニに走ったのはここだけの話です。細いドライバーで頑張ったら掌が現在筋肉痛です。痛いです。

本当はファイルを入れる棚も欲しかったのですが生憎の売り切れでした。
・・・もうAMAZONで注文してしまおうかしら(←AMAZONはDVD購入にしか使わない人間)。


常々思う事の良し悪しに感けず攣れ綴る。
其の捌 戦車と児童ポルノ



現在、児童を被写体にした成人アニメやゲームなどの二次元作品、いわゆる“児童ポルノ”が痛烈な批判対象になってます。しかし、何故それを規制しようとするのか僕にはどうにも理解出来ません。僕がいわゆる“オタク”に分類される人間で、オタクでない人間の思考と同じにはならないという事ではないと思います。

この広い世の中には様々な物に趣向を寄せる人間がいます。自動車・芸能人・小説・電車・アニメ・・・。そして兵器。
僕は“兵器=戦争”という思考しか出来ないので兵器一般全て嫌いです。あ、まあ拳銃とかは普通に好きですけど、でもモデルガンを買うほどではありません。タチコマも思考“戦車”ではありますがここでは横に置いといて下さい。
でも、兵器好きの人間は間違いなくいるし、少数派とも呼べない位の規模である事は理解しています。
そしてそうした兵器好きの人間を見ていると、少なくとも“戦争万歳!”なんて馬鹿な考えを持っている人はいません。
“大砲のあの発射音が好き”“無骨な概観が堪らない”“キャタピラで走る戦車の姿が格好良い”“戦闘機の飛んでいる姿は素敵だ”というような事は口にしても、少なくとも戦争で死んでいく人間に対して涙する事の出来る人が殆どだと思います。
戦車の演習訓練に喜ぶ人でも、実際の戦場で大砲が撃たれる事を願う人はいない。
児童ポルノも、同じなのではないでしょうか。
例えば児童ポルノを好きな人間全員が実際に児童暴行事件を聞いて、“羨ましい”と全員が思うのでしょうか。“自分もやってみたいなあ”と考える事があるのでしょうか。
包丁での刺殺事件があっても、包丁を憎む人間はいません。
ありとあらゆる罪を憎む人間はいても、道具そのものを憎む人間はいません。

児童ポルノはあくまでも“作品”という道具なのであって、それを禁止するのは無意味でしかないと、僕は思います。


おまけ。
yahoo!トップページのニュースより。

催事中止

これ見て真っ先にインテックスの事かと思った人は仲間です。

可愛人形

*更新履歴だ!ふはははははは!
 ・イラスト一点追加。アルトネでホワイトデー。
 ・ブックマーク一件追加。アルトネ。

こうして無断リンクが増えていく・・・。


常々思う事の良し悪しに感けず攣れ綴る。
其の柒 pussycat



話は突然ですが、暫く前に“プッシーキャット・ドールズ”なる女性歌手グループの名前をラジオで度々耳にしていました。
ここで“おいおい”と突っ込んだ貴方は多分“マルドゥック・スクランブル”読者です。

“プッシーキャット”って・・・“マルドゥック・スクランブル”では女性性器の呼称で登場しているんですよね。
そんな単語をグループ名に付けて良いものかどうかは僕個人の判断するところではありませんが、気になったので単語の意味を調べてみました。

 pussy・cat=〔話〕 猫; お人好し(な女), かわいい人.
     (goo辞書より抜粋)

はい、期待を大きく裏切ってフツーな意味しか出てきませんでした。
が、“pussy”の意味の中に女性性器とあったので、ではやはり“pussycat”も同じ意味があるのではなかろうかと邪推してます。
他人に大っぴらに訊ける内容でもないだけに、詳細がとても気になる所ですね。

・・・という事はつまり、この女性歌手グループの名前を日本語で表すと“可愛いお人形さん”もとい“ダッチワiげふんげふん。

  Pussycat Dolls

情報規制

常々思う事の良し悪しに感けず攣れ綴る。
其の陸 イコールの壁


ども。久々の常綴です。

生物系の研究者にとって常日頃気をつけなければならない事がある。

“Aという事象が確認出来る系からBという物質が検出されたからと言って、BがAを引き起こしているとは限らない。”

どういう事かと申しますと、例えばある病気に罹った患者から取った血液を顕微鏡で観察する。この時、健康体からは見付からなかった微小な粒が大量に発見されたとします。じゃあこれが病気を引き起こした原因か、と決断するのは早計だと言う事ですね。
もしかしたらその小さな粒は病気を治す為に患者の体が作り出したものかもしれない。或いは真の病原体が生み出した単なる副産物かもしれない。全く別の病気を引き起こす原因かもしれない。
日本で偉大なる科学者と評される野口英世の見た物が黄熱病の病原菌でなかったように、殊生物の世界に於いて原因と結果は凄まじいまでに複雑に絡み合っています。
故に、生物学者はそれを常に留意していなければならない。

さて、ここまでは前置き。
本題いきます。

最近やたら声の上がっている“人権擁護法案”。一部の政治家が手を変え品を変えあの手この手で成立させようと躍起になっておられるようで。
名ばかりが美化されておりますが、要は大戦中の表現規制みたいなもんです。“この表現は差別だ!”と言われたら大人しく従うより他に無い。憲法にある“表現の自由”もなんのそのといった模様。
これと絡んで“児童ポルノ法”も規制が強化されるとか。
子供に対する性犯罪の大因が児童ポルノ物の漫画・小説・アニメにあると仰ってます。勿論フィクションのですよ。ノンフィクション及び実写は文句なしに犯罪ですから。

これらの法案を賛成する人間の言い分としてみれば“こんな内容が犯罪者を生むんだ”とかいった感じでしょう。
 ・暴力的なシーンのある作品は暴力的な人間を生む。
 ・性犯罪を題材にした作品を見た人間は性犯罪に走る。
 ・児童ポルノの鑑賞は子供への性的いたずらに繋がる。
あのーすみません幾らなんでもあんまり事柄を直結させすぎじゃないですか?どうしてここまで短絡的になれるのか疑問でなりませんよ先生(誰だ)。
最初に述べたように2つの事柄がセットで提示されたからと言って、その2つが因果関係にあるわけではありません。
むしろ殆ど関係ないことの方が多いです。

例えば仮に“問題がある”とされた作品を、男女問わず無作為に選んだ100人に鑑賞させます。そらもう徹底的に!アヤシイ宗教団体の如く!朝から晩まで鑑賞させて、1週間程過ごしてもらいます。果たして何人が犯罪に走るか?実証するまでも無く殆ど0に近いでしょうねえ。
この実験で半数以上の人間が“問題ある”行動を起こしたら流石にその作品は本当に問題があるんでしょうが(洗脳システムが組み込まれているとか)、そうでもない限りその作品自体に問題があるとは言えません。
こんな事はちょっと考えればすぐ分かる筈なのに、何故それに気が付かないのか。それは、そもそもの前提が誤っているからなんです。

上の実験では対象者を無作為に選出しましたが、現実問題として一つの作品を買っていく人間を任意に選ぶ事は出来ません。作品を買っていく人間が作品を選んでいるわけです。だから例え児童ポルノを持っている人間に子供への性的いたずらをする者が含まれていたとしても、それは作品を鑑賞した結果ではなく、性的いたずらをするような人間が偶々そういう内容の作品を所持していたというだけに過ぎないのです。

この“作品を買っていく人間が作品を選んでいる”という前提を無視した結果、安易に“問題ある作品は犯罪の発生に繋がる”なんて嘯いてしまうのですよ。


てな事を“ゆうきまさみのはてしない物語”を読みながら思ったり。
しかし今も昔も物書きの憂鬱って変わらんのな。物を書くとは是即ち政府の規制との戦いなり。


そいや“カード探偵団”も結構進みましたが、謎サイトの動画が怖すぎて泣きそうです。8人の集合写真が全部カラスになっていくのとか、もう言葉にするだけで夜トイレにいけません。ああああああ。

茎肉植物

常々思う事の良し悪しに感けず攣れ綴る。
其の伍 耳ある草


よく、サボテンに話しかけると元気に育つ、と言われています。
サボテンに限らず、植物はどんなものでも話しかけると良い、なんて言われていたりもします。
本当でしょうか?

実は未だに動物と植物の区分は明確に定められてはいません。
“葉緑体のある細胞を持った自らは動けない生物が植物でしょう?”と思われるかもしれません。
では、ミドリムシは?
自分で動ける上に、葉緑体まで持っています。
果たしてミドリムシは植物か動物か。

動物か植物かの区分は、正確には“界”と言いますが(動物界、植物界など)、この界には幾つも説があり、今でも議論が続けられています。
現在最も多く取り上げられているのが動物界・植物界・菌界・原生生物界・モネラ界からなる五界説ですが、反論が多いのもまた事実。
因みに、前述のミドリムシは原生生物界に属し、アオサやノリ、アメーバなんかの仲間とされています。
疑問が解決したんだかどうか分からん結果。
まあようするに、原生生物界は動物と植物に別れる前の中間体の生物に近い、という事ですね。

話が逸れました。

まあそうやって議論が続けられている中で、今回の所はサボテンやらの一般で言う所の“植物”を植物界の生物とします(一応これは五界説に則っております)。
さて、この植物には神経系が一切ありません。全ての行為を細胞の浸透圧とホルモンで支配しています。
だから勿論“耳”なんて組織ある訳はない・・・。

じゃあ最初に述べた通説は嘘?
ところがどっこい(古い・・・)、それもあながち間違いじゃあない。

小学生の頃、誰もが植物特有の働きを習った事と思います。
その働きのお陰で、我々生物は呼吸をしていられる訳です。
そう、光合成です。
以下に化学反応式で簡単に示すと・・・
   6CO2+6H2O → C6H12O6+O2
よーするに二酸化炭素と水でグルコース(養分)を作り、余った物をまとめたら酸素になりました、というお話。

さてここからが本題。
この光合成に欠かせない材料である二酸化炭素。これの主な仕入先はと言えば、我々の吐く息、つまり呼吸です。
我々人間は喋る時、意識せずに呼吸をしています。
勿論、サボテンに話しかけている時にも。
つまり、“植物に話しかける”という事は、植物に二酸化炭素を供給しているのと同じ事なんですね。

シャワーの様に降りそそぐ二酸化炭素。
植物には、まるで天の恵みの如く感じられる事でしょう。
労せずにして光合成の材料を手に入れられるんですから。
そりゃあ元気にもなるってものです。

最後に、植物と語り合う時間について。
最も効果的なのは、植物が二酸化炭素を取り込む時間です。
二酸化炭素を取り込むのは“気孔”という穴。他にも酸素の出し入れや、気体になった水の放出も行っている所です。
この気孔は自在に開け閉めする事が出来、殆どの植物は光合成の行える昼に気孔を開けて二酸化炭素を取り込みます。
だから昼の太陽が出ている時に話しかけましょう。
一方サボテン。
サボテンは御存知の通り、砂漠など乾燥地域に生息する植物です。
灼熱の中で暢気に気孔を開いていようものなら、あっという間に体内に蓄えた水が消えていってしまいます。
そうなっては生きていけないので、サボテンは夜だけ気孔を開いて二酸化炭素を日が出るまで蓄えておきます。
なので、サボテンは夜の方が良いでしょう。

まあ、別に語りかけんでも、目の前で呼吸をしているだけで充分なんですけどね。

弥勒菩薩

常々思う事の良し悪しに感けず攣れ綴る。
其の肆 頽滅の微笑


現在特別拝観している法隆寺と薬師寺へ行って参りました。
まずは法隆寺。
夢殿の本尊・救世観音を、この眼でしか、と拝ませて頂きました。
薄暗かったので、多少観づらかったですが。
とても美しいお顔をなされておられました。はい。
今回は期間限定の夢殿本尊公開とは別に、法隆寺の秘宝展も行われていました。
眼福です。
続いて薬師寺。
吉祥天像を始め、様々な大宝蔵殿所蔵の品を拝観。
吉祥天像は日本史や美術の教科書に掲載されている事が多いので、知っておられる方も多いのではないかと思います。

さて、ここらで本題を。
仏像や仏画など、1000年程も前に作られた物達は、現代では当たり前ながら薄汚れ、色褪せ、中には破損しているものもあるわけです。
傍から観れば(罰当たりな台詞ですが)明らかにガラクタの類であろうそれらは、しかしながら我々の眼を、心を捉えて離しません。
我々は、色褪せたそれら美術品に、“真の美”を見出すのです。
何故なのか。

ここで僕個人の意見を取り入れるならば、例えば1000年の年を経た仏像と、それを過去の煌びやかであったろう時代から持ってきたものと並べて、“どちらがより美しいと思うか”と尋ねられたら、迷う事無く1000年来の古ぼけた仏像を選びます。
当時は豪華絢爛であったものより、朱や漆、箔などが剥がれ落ちて所々にしか残っていない様なものの方が、僕にとって魅力的なのです。

万人が僕と同じ考えを持っているとは思っておりませんが、“時の与える頽敗”に心を揺さぶられる方は少なくないのではないでしょうか。
そもそも仏教的美術品は信仰心の具現化であると同時に、(造立を命じた者の)権力・財力の誇示材料でもあったわけです。
だからこそ、贅沢の粋を集めた朱塗り、漆塗り、箔押しなどの行程が存在する。
端的に言ってしまえば、信仰の為だけであるならば、荒削りの木像でも、筆一本を走らせただけの絵であっても構わない筈です。
しかしながら、それらは仏教的“美術品”と呼ばれ、視覚的な“美”を追求しています。
そのままであるならば、これらもまた只の“美術品”としてそこに存在するだけで終わったでしょう。

その、只の“美術品”がそのままで存在せず、今尚信仰心を集めているのには2つの事柄が深く関わっています。
第一には、先程述べた様に“物質的に風化している”という事が挙げられます。
風化してしまった事によって、(“信仰”という事から言えば)本来不必要な行程の部分が殆ど削ぎ落とされ、必要最低限の本体だけが残されました。
そして“美術品”としての価値から開放され、本来あるべき所に戻ったわけです。
そして第二には“過去の信仰心の積み重ね”が挙げられます。
1000年程も昔のものが、壊れて消えてしまう事も無く今日の我々の観る所となっているのは、偏に昔の人々がそれらを守り、慈しみ、大切に思っていたからこそです。
我々は、仏教的美術品を、過去の人間の信仰心と共に拝み、奉っているのだと僕は思うのです。

睡眠不足で少々高テンションになっていますと思われます・・・。

仰我恩師

常々思う事の善し悪しに感けずつれ綴る。(略して常綴)
其の参 仰げば尊し


 仰げば尊し 我が師の恩
 教えの庭にも 早幾年
 思えばいと疾し この年月
 今こそ別れめ いざさらば

そろそろ卒業のシーズン到来ということで。
結構勘違いしている人が多いらしいのですが、“今こそ別れめ”は“今この時が別れ目(別れの日)だ”という意味ではありません。
“こそ”は強調の為に使う係詞(かかりことば)で、コレが文中に入るとその文末の単語は終止形から已然形(いぜんけい)に変化します。
それによって本来は“別れむ”となる文末が変化し、“別れめ”となっているのです。
では、何故そのように変化するのでしょうか?
この“別れむ”とは、動詞の“別る(わか-る)”に意志の意味(~しよう)を持つ助動詞“む”が連結したものであり、この助動詞“む”の已然形が“め”であります。
この事によって、“こそ”のパワーを受けた“別れむ”(正確には“む”)が“別れめ”(“め”)に変化した、というわけです。
さて、以上の事を踏まえて考えてみると、“今こそ別れめ”の意味が判るかと思います。
 “今”は、そのまま“今”
 “こそ”は、強調のための単語なので訳さない(強いて言えば“この時”とか)
 “別れめ”は、“別れよう”
そのままつなげれば、“今この時別れよう”。
よーするにこの歌は、“あんな事もあったこんな事もあっただけど別れましょう”という、後ろ髪を断ち切るような歌なんですねェ・・・。

・・・恋愛でもこう行けばいいのですが。
Calender
08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
Category
Archive Every Month
Search
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。